第23回 親鸞聖人関東ご旧跡巡拝旅行(大洗海岸コース)
平成23年6月30~7月1日
参拝六ヵ寺
報恩寺 西念寺 妙安寺 光明寺 
小島草の庵跡 東弘寺 常福寺  牛久の大仏

小島の草庵跡で巡拝者一同
二十四輩 第一番
            報 恩 寺
     (浄土真宗大谷派)
                        茨城県常総市豊岡町
                          開基:性信房






報恩寺のご住職






報恩寺本堂でおつとめ
 建保二年(1214年)性信房28歳の時、下総国岡田郡横曽根の郷(現常総市豊岡町)に、荒れるにまかせてあった真言宗の大楽寺という無住の寺を再興し、真宗念仏の道場とした。「真成報仏恩」という釈文の心を汲み、「報恩寺」と名づけた。ここに真宗初めての寺、報恩寺が開創されたのである。
 開基性信房は、鹿島神宮の神官をしていた大中臣氏の生まれで、元久元年(1204年)18歳の時、紀州熊野権現に参詣の折、神勅を受ける。上洛して東山吉水の法然聖人を訪ね、本願の教えに帰依するのである。その縁で、性信房は親鸞聖人の弟子となり、それ以来聖人に随従した。聖人より14歳年下であった。
 聖人と師弟の契りを結んで3年後の承元元年(1207年)、聖人は越後に遠流になり、性信房も随伴した。赦免後、関東に向かう聖人に従って、性信房も常陸国に移住した。
「やむ子をば あずけて帰る旅の空 こころはここにのこしこそすれ」
 貞永元年(1232年)宗祖60歳の時、帰洛の途についた聖人に、性信房は同行を望むが、師は、性信房が関東にたち帰って門徒を導くよう諭し、箱根山で涙の決別をする。この時、聖人は自ら背負っていた笈と、『教行信証』の草稿や手道具を性信房に授けた。
 親鸞聖人の帰洛後、性信房は横曽根を根拠地として精力的に布教活動を続け、建治元年(1275年)この地に入寂、89歳の時であった。
 天正五年(1577年)戦禍を受けて横曽根の坊舎は灰燼に帰した。慶長七年(1602年)、徳川家の援助を得て、江戸に寺基を移した。
 後年、横曽根の旧地に本堂が再建され、現在に至る。



二十四輩 第七番
           辺田 西 念 寺
     (真宗大谷派)
                            茨城県坂東市辺田
                                       開基:西 念 坊 




 西念寺の本堂



西念寺の本堂で 


西念寺本堂でおつとめ

 辺田西念寺の開基は、西念房という。寺伝によれば、西念房は俗姓を信州井上郡井上城主井上五郎盛長の子三郎貞親といった。貞親は、父盛長が討ち死にしたのを機に、世の無常を観じ、道を求めて、越後の親鸞聖人を訪ね、その弟子となった。
 貞親は、聖人から西念と法名を賜り、常時聖人に仕え、聖人が関東に赴いた時も、聖人に従って、常陸に入国したのである。
 後に、西念房は武蔵国足立郡野田の郷に一宇を建立した。この地は井上家の旧領のあったところと伝えられ、聖人に帰依の門徒に門前市をなしたという。
 やがて帰洛の途につく親鸞聖人に、西念房も同行を願うが、聖人から「関東に止まり、有縁の衆生を教化すべし」と諭されたので、西念房は野田に止まり、布教につとめ、正応四年(1291年)百八歳で往生の素懐をとげた。
 現在の辺田西念寺は、もとは天台宗の聖徳寺と称していた。親鸞聖人関東入国のころ、聖徳寺は西念房の弟、井上四郎義繁が住持していた。義繁も兄と同様出家して、天台宗の僧となり、円盛比丘と称していた。兄の縁で稲田に親鸞聖人を訪ね、弟子となり、法名を信証と賜り、兄の西念房と力を合わせ、聖徳寺を真宗の道場とした。
 一方、西念房の開いた野田の道場は、建武の兵乱に遭って炎上し、古河に移ったので、野田道場は廃退した。
 本願寺十四代啄如上人は、野田道場の廃退を惜しみ、辺田の聖徳寺が永く西念房の血脈を伝える由緒があることから、寛文四年(1664年)聖徳寺を西念寺と改め、野田西念房旧跡としたのである。
 江戸時代、辺田西念寺は、相当大きな寺であったが、明治になり、廃仏毀釈の後、衰退して、一時廃寺になっていた時期もあるという。
 現在は復興して、七間四面の立派な本堂や宝物庫が建設されている。
                         (極楽山聴衆院西念寺)



 二十四輩 第六番
              妙 安 寺
     (真宗大谷派)
                           茨城県坂東市三村
                                                   開基:成 然 房 



妙安寺の本堂


妙安寺のご住職




妙安寺本堂でのおつとめ




 「御真影御里御坊」と称される三村の妙安寺は、二十四輩第六番成然房の開基である。
 寺伝によれば、成然房は俗姓を九条関白兼実の第十男、従三位左近中将幸実と称し、親鸞聖人の妻と伝えられる玉日姫の兄といわれる。承元四年(1210年)勅勘を蒙り、常陸国一ノ谷に配流の身となった。
 その後、常陸に入国した親鸞聖人とは遠戚にあたり、その聖人を慕って教化を受け、門弟となって法名を成然房円信と賜った。
 妙安寺は、古くは推古天皇の勅願により、国家鎮護のための聖徳太子草創の霊場で、三論宗の最頂院葛城寺と称したという。草創以来八代で天台宗に代わったが、まもなく無住の廃坊になってしまった。
 天福元年(1233年)、成然房は聖徳太子の夢告を受け、常陸国金砂山の城主佐竹刑部左衛門義廉の協力で廃坊を再興、寺号も一谷山妙安寺と改め、念仏弘通の根拠地にしたのである。  長い歴史を持つ妙安寺には宝物も多い。親鸞聖人寿像は、成然房が弘長二年(1262年)に上洛し、聖人にお会いした折、別れを悲しむ彼のために、聖人が自刻して与えたものという。聖人帰洛の折の形見のご真影は、徳川家康の命で東本願寺に献納し、代わりに覚如上人自筆の真影が教如上人より贈られたという。また、天台宗寺院だったころの本尊十一面観音像も安置されている。
 聖徳太子火防の尊像は、鎌倉時代作といわれ、太子十六歳の像で、右手に柄香炉、左手に杉の小枝を持ち、正徳三年(1713年)の火災の折には、太子が火を消したと いう伝説から、「火防の太子」と呼ばれている。


  
              光 明 寺
    (真宗大谷派)
                         茨城県東下妻市下妻乙
                                                   開基:明 空 房 




光明寺の本堂



光明寺ご住職



光明寺本堂でのおつとめ
鏧(キン)は横から打つ
 光明寺は、親鸞聖人の常陸での最初の逗留地「小島の草庵」と深い関係を持つ。開基明空房は、六老僧の一人で、寺宝『門侶交名牒』のはじめに“明光・明空・了海・源海・了源・源誓”とあり、「己上門弟六老僧」と記されている。
 明空房は、寺伝によれば、桓武天皇の後裔で俗名を三浦荒次郎義忠といった。鎌倉高井城の城主であったが、建保元年(1213年)和田義盛の乱で大敗を喫し、落人となった。無常を観じた義忠は、仏法修行を志し、諸国を遍歴した。
 あるとき、瀬ヶ見が原(現下妻市)にさしかかったとき、現成院という祠に身を寄せ、一夜を明かそうとした。その夜、夢に化僧が現れ、「ここを南に十八町(二キロ)ほど行くと、小島というところに世に稀な聖僧がいる。そこに行け」と告げた。この聖僧こそ親鸞聖人であった。
 ここで義忠は、親鸞聖人に浄土真宗絶対他力の道を聞き、弟子となって、法名を明空と賜り、聞法道場を建立した。
 光明寺には、寺宝としてはあまり例のない栗の木の化石がある。ある月夜の晩、聖人と明空が歩いていると土中に光るものがあった。それが栗の木の化石だったのである。これも弥陀のはからいと、この地に一宇を建て、栗の字を組み入れて、「西木山高月院光明寺」と寺号を定めたとされている。承久二年(1220年)三月のことであった。爾来八百年にわたり寺基を他に移すことなく、その歴史を今に伝えている。
 境内には親鸞聖人お手植えの菩提樹が茂り、樹下には郷土の生んだアララギ派の歌人長塚節の歌碑が建っている。
 「うつそみの人の為にと菩提樹を ここに植えけむ 人の尊さ」  先代の三浦義晃住職が、節と同級生でもあり、遠戚関係にあったことから、節はよく光明寺に来ていたという。
 また、開基明空手植えという柊の老樹がみごとな姿をみせている。柊の道場といわれる所以はここにある。



 常陸入国、初の草庵
              小島の草庵
   茨城県下妻市小島
 
 親鸞聖人は建暦元年(1211年)越後での流罪赦免ののち、建保二年(1214年)42歳の時に、妻子を伴って信濃から上野の佐貫の庄を経て、常陸の国に入った。
 親鸞聖人が常陸で最初に草庵を結んだ場所については、諸説あるが、その中では一応“小島の草庵説”が通説になっている。
 常陸の国に入った聖人一家は、『常陸国下妻の三月寺小島に三年ばかり』(反故裏書)逗留した。常陸国小島の郡司、小島武弘の招請に応じたものであるらしい。正徳五年(1716年)高田派の良空が、高田正統伝を記す際に、小島草庵説を付したのが、この説の始まりである。
三年後、一家は稲田の地におもむくために、小島の草庵を後にするが、その際、草庵を門弟の蓮位房に譲る。三月寺はこのあとに建立されたものだ。親鸞聖人は、三年目の最後の三ヶ月、この草庵からどこにも出ずにいたので、それにちなんで“三月寺”と名づけられたともいう。
 小島の草庵での生活を語るのに欠かせないのは、恵信尼公の「下妻のさかいのごう」での夢想の話である。その内容は、恵信尼公が聖人の死後、その最期を看取った末娘の覚信尼に宛て書き送った手紙(恵信尼文書)からうかがうことができる。それによると、夫である親鸞聖人は、観音菩薩さまの化身であるとの夢を見たといい、それ以来、聖人が亡くなるまで口には出さなかったが、仏さまに仕える気持ちで、夫に仕えたという。
 この書簡は、親鸞聖人の妻帯生活を示す唯一の史料として貴重であり、ここからうかがえる二人の間に流れていた尊敬と信頼の情、その情愛の深さは強い感動を呼ぶ。
 小島の草庵跡は、今はその面影はないが、この地は、それ以後二十年におよぶ常陸の国での布教活動の端緒を切ったところであり、親鸞聖人を語るとき、欠かせない遺跡である。
 周囲が10mもあろうかと思われる大銀杏が空にそびえる様は雄大だ。一説には、これは親鸞聖人お手植えの銀杏ともいわれている。 


 

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小島の草庵
 二十四輩 第九番
              東 弘 寺
     (真宗大谷派)
                          茨城県常総市大房
                                                   開基:善 性 房 



東弘寺の本堂





東弘寺本堂でのおつとめ



 東弘寺の歴史は、建長二年(1250年)に、開基飯沼善性房が東弘庵処という小さな念仏道場を開いたのが起こりである。寺伝によると、善性房は後鳥羽院の第三皇子但馬の宮正懐親王で、順徳院の弟君に当たる人といわれ、出家して比叡山に登り、名を周観と改めた。
 仏教を学んだ周観(正懐親王)は、優秀な成績で将来を嘱望されたが、山上の名利の争いを嫌い、建保六年(1218年)二十歳の時に山を降り、諸国行脚に出た。そして、下野国に入り、国守豊田四郎治親のもとにとどまることになる。ちょうどそのころ、親鸞聖人が越後から関東に入国したことを聞き、小島の地に聖人を迎え、その教化を受けて弟子になった。そして、倉持の地に道場を開き、「東弘庵処」と称した。これが東弘寺の草創である。
 年を経て、天正年間(1573-91)第十一世定善住職の時、原野を開拓して倉持から現在の大房の地に移転した。
 親鸞聖人と関東門徒との直接の信仰問題に関する最重要文献として、真宗聖教の一つとされているものに「御消息集善性本」がある。現在、高田専修寺に伝承されているもので、その表紙の下方には「釈善性」と書かれ、包み紙にも「御消息集一冊 飯沼善性房筆」とあり、東弘寺開基飯沼善性房の編集によるものとみられている。
 古い歴史を持つ東弘寺の本堂は、天井が高く、いかにも堅固な造りである。正面には、幕臣であり、勝海舟に協力して江戸を兵火から救った山岡鉄舟筆による『高柳山』の額がかかげてある。



 二十四輩 第十八番
           常 福 寺
     (真宗大谷派)
                      茨城県つくば市大曾根
                                             開基:入 信 房 


常福寺の本堂






常福寺本堂でのおつとめ


 つくば市大曽根の佛名山玉川院常福寺は、二十四輩第十八番、入信房の開基である。筑波山ろくの緑と溶け合って、静かに建つ寺である。
 開基入信房は、同名の第十六番御前山寿命寺の「穴沢の入信」に対して、「八田の入信」といわれる。 寺伝によれば、入信房の俗姓は八田七郎知朝といい、武将で、その戦いぶりは近隣に名を馳せたという。武士である知朝は、仏心浅からず、毎日を仏道にのっとった生活をと、努力していた。
 稲田草庵に住んでいた親鸞聖人は、常陸国内を精力的に布教、奥久慈にまで足を伸ばした。
 その時、この地方に古い太子堂が建っており、聖人はその太子堂を参詣したことがあった。
 知朝はこの機会をとらえ、親鸞聖人に会い、日ごろの疑問や悩みを打ち明け、聖人のゆきとどいた教えを受け、その教えに歓喜してさっそく弟子になり、入信房と法名を賜ったのである。
 建保四年(1216年)那珂郡八田に一宇を草創、常福寺と称した。その後、八田の常福寺草庵は、中世兵乱に遭い、変遷を経て、天文十年(1541)に、現在地(つくば市大曽根)に移築し、現在に至っている。
 入信房は、親鸞聖人が帰洛したあと、師を慕って上洛しようとしたが、尾張日比野(愛知県)の運善寺において、往生をとげた。現在も、運善寺には、入信房の木像が所蔵されている。



  
            牛久の大仏