第22回 親鸞聖人関東ご旧跡巡拝旅行(大洗海岸コース)
平成22年6月17〜18日
参拝七ヵ寺
上宮寺 善重寺 浄光寺 願入寺 
無量寿寺 報仏寺 信願寺 
水戸市千波湖畔の映画「桜田門外の変」オープンセット見学
 上宮寺の本堂前で巡拝者一同
二十四輩第十九番
            上宮寺
     (浄土真宗本願寺派)
                        茨城県那珂市本米崎2270
                          開基:明法房


上宮寺の本堂






上宮寺本堂でおつとめ
 明法房といえば弁円。弁円といえば、親鸞聖人を殺害しようとした修験者山伏であり、弁円が開基の上宮寺は、板敷山大覚寺とともに、忘れられない旧跡である。  弁円は、関白藤原忠通の曾孫として生まれた。幼くして聖護院の宮の門弟となり、播磨の公弁円と称し、苦しい修行の末、修験道界においてはかなりの力を持つようになった。  常陸金砂の城主佐竹末賢も弁円の徳を慕い、久慈西の郡塔の尾楢原谷に護摩堂を建てて、弁円を招き、祈祷所とした。  ところが、稲田に草庵を結んだ親鸞聖人の影響力が次第に広まるにつれ、民衆の心が弁円から離れ始めた。"仏教”の敵と受け取った弁円は親鸞聖人を殺害しようと、板敷山に待ち伏せるが果たせず、ついに稲田の草庵を襲った。武装した山伏たちにふいに襲われたにもかかわらず、聖人は笑顔で山伏たちを迎えた。その顔を見た瞬間、害心たちまちに消え、後悔の涙で顔をぬらした弁円は、その場で弓矢をおり、聖人の弟子となり、法名を明法房と賜った。  寺伝によれば、上宮寺は、承久3年(1221年)、弁円により建立された。 明法房はその後、親鸞聖人の忠実な弟子となって給仕し、建長3年(1252年)に往生を遂げて、楢原谷に葬られた。  本堂の中には、国の重要文化財である聖徳太子一代絵伝や弁円ゆかりの遺品なども安置されている。

                     (楢原山正法院上宮寺)




二十四輩第十二番
              善重寺
  (真宗大谷派)
                       茨城県水戸市酒門町2096-2
                                               開基:善 念 坊 



 善重寺の本堂




善重寺の本堂でのおつとめ 

 バス停坂の上の石柱を指標として、中に入っていくと、正面に山門が見える。緑の多い静かな環境だ。山門を入ると、左側に太子堂、鐘楼があり、正面が本堂である。
 建保四年(1216年聖人44歳)八月、文武に励む十八歳の青年三浦義重が戦さの神で知られる鹿島神宮へ参っての帰り道のことである。ちょうど桜川にさしかかったとき、粗末な墨染めの衣を着た出家が土手の上にたたずんでいた。よく見れば川を渡れなくて困っている様子。義重は屈強な身体に出家を背負い、無事に対岸に渡すことができたが、当の青年はさえない顔をしていたので、出家が訳をたずねると、義重は「実は今大いに悩んでいます。父の教えで文武に励み、今も鹿島神宮に願をかけに行ったところですが、強くなるとはどういうことか、結局は勢力の争いに勝つことでしかないのではないか」と、打ち明けた。この出家が親鸞聖人であった。義重は親鸞聖人の人間味ある話に惹かれ、弟子となり、貞永元年(1232年聖人60歳)三月、那珂郡門部村に寺を建立、名を善念と称した。
 善重寺十五代念亮は学識すぐれ、水戸光圀の帰依を受け、寛文十年(1672年)現在の地に移っている。
 善重寺は、江戸期には水戸藩内の本願寺末寺を統括する触頭であった。太子堂には、湛慶の作と伝わる国の重要文化財の十六歳の「孝養太子像」が安置されている。
 また、中庭に芭蕉の句「野分して盥(たらい)に雨を聞く夜かな」の石碑がある。
                       (遍照山光明院善重寺)



 二十四輩第二十一番
              浄光寺
  (浄土真宗本願寺派)
                      茨城県ひたちなか市館山9015
                                               開基:唯 仏 房 



浄光寺の本堂




浄光寺本堂でのおつとめ




 浄光寺は、ひたちなか市館山にある。小高い丘の上には、真宗の七カ寺が密集し、「館山七カ寺」と呼ばれ、親しまれている。この中心に一段と古さと風格を見せている門が、浄光寺の入り口である。この門は、佐竹侯の旧門を拝領したものといわれる。清々しい感じを与える境内には、本殿などが重々しく並び立つ。
 浄光寺は、八十四代順徳天皇のとき、藤原隼人佑頼貞が那珂郡枝川村に居住したことに始まる。さらに、建保二年(1214年)、親鸞聖人が稲田の居住していた時に、頼貞が教化を受けたのが聖人との出会いとなる。聖人の教えを聞いた頼貞は、深く聖人に帰依し、貞応元年(1222年)剃髪して、法名を唯仏房浄光と賜った。そして、聖人御真筆の金泥九字名号、十字名号などを授けられた。
 貞応元年十月十五日、自らの館を聞法の道場とし、衆宝山無量光院常光寺と名づけ、開基した。
 時を経て、慶安二年(1649年)徳川家光の命により、那珂郡湊村(現在地)に御朱印地を賜り、堂宇を移築。この時、常光の一字を改めて、浄光寺となったという。
 以来、元治元年(1864年)の火災や幾多の天災を経て、今日に至っている。
浄光寺には、「鍋冠阿弥陀如来」「阿弥陀板」など、多くの伝説が残っている。                    
                (衆宝山無量光院浄光寺)




  本願寺第二世如信上人の創建
              願入寺
  (原始真宗大本山)
                     茨城県東茨城郡大洗町磯浜7920
                                               開基:如 信 上人 


願入寺の本堂



願入寺 大網義明住職



二十四輩連著の源本
 親鸞聖人の孫、如信上人(1235〜1300)は、京都で生まれ、幼いときから聖人の膝下に育った。18歳頃、父の善鸞上人とともに関東に下ったといわれる。
 弘安二年(1279年)奥州白河郡大網村東山に草庵を結び、雨や風の日をいとわず、布教を進めていったという。
 如信上人は、二十四輩の原本をよく見ると、親鸞聖人の法脈、血脈の第一人者である。本願寺第三世の覚如上人は、御伝鈔・口伝鈔・改邪鈔を撰し、本願寺の礎を築きあげたが、その改邪鈔では「この鈔は祖師本願寺親鸞聖人が、先師大網の如信法師に面授口決せられた正旨浄土往生の最要である。予壮年の昔、忝くも法然・親鸞・如信と三代伝持の血脈を受けて以来、とこしえに釈迦、弥陀二尊の大切な御教えを胸に・・・」と、曽祖父親鸞聖人の姿を知らない覚如上人は、ひたすら如信上人を師と仰ぎ、敬愛し、本願寺の形態を整えていった。
 如信上人は毎年十一月、はるばる京都に上り、親鸞聖人の墓に御供米を供えたという。
「二十四輩連著」は、正慶元年(1332年)正月五日、願入寺第三世空如上人の筆といわれる。如信上人の三十三回忌の法要で、京都より覚如上人が奥州大網の願入寺に参詣した翌日、覚如・空如両上人話し合いの中ででき上がったものという。
 大網草庵は空如上人の代に願入寺と名を改め、常陸国那珂郡大根田村、同国久慈郡久米村と移りながら、衰微を続けた、江戸期十五世如高のとき、親交のあった水戸光圀は、由緒ある寺の衰微に心を痛め、延宝二年(1674年)茨城郡宮田村岩船(現在地)に堂塔伽藍を建立して、願入寺を移転させ、あわせて寺領三百石を寄進し、復興をはかった。
 如信上人の墓は、大子町法竜寺にあるが、「幕末の動乱で、願入寺からはなれたことが、一番の気がかりです」と、住職の大網義明師は話しておられるという。





 二十四輩第三番
              無量寿寺
  (浄土真宗本願寺派)
                          茨城県鉾田市鳥栖1013
                                                  開基:順 信 房 



無量寿寺本堂の前で



無量寿寺の山門


無量寿寺の聖人御手植え
焼榧(ヤケカヤ)の大木


 この寺は、もともと三論宗の寺であり、大同元年(806年)に平城天皇の勅願所として建立され、無量寺と号した。鎌倉時代の元久元年(1204年)には禅宗の僧頓阿が住持し、禅宗の寺として栄えたが、有名な幽霊の話は、同じ鎌倉時代の承久三年(1221年)の出来事であった。
 当地に住む地頭の村田刑部少輔平高時の妻が、難産のため、十九歳で死亡したのである。悲しみにくれる高時や親戚一同が、ねんごろに無量寺境内に葬ったが、毎夜幽霊となって現れるようになった。住職が禅の教義に基づき、供養しても一向に効き目がなく、ついに住職も逃げ出し、無住寺になってしまった。
 高時はじめ人々は成仏できずにいる妻を不憫に思っていたが、親鸞聖人が鹿島神宮に参詣のため、当地を通られることを知り、聖人に御斎度を願うことになった。
 快く訴えを聞き入れた聖人は、弟子の順信房を連れて、待ちわびる人々の前にやってきた。親鸞聖人は多くの小石を集めるよう告げると、自らその小石に、一石一字ずつ浄土三部経二万六千六百十二字を書写し、幽霊出現の墓へ埋めて、ねんごろに念仏を称えられた。するとたちまち恐ろしい幽霊は菩薩の姿に変じ、無事往生を遂げたという。「弥陀たのむこころをおこせ皆人のかわるすがたを見るにつけても」という親鸞聖人の歌はこのときのものと伝えられている。
 聖人はこの地に三ヵ年在住した後、弟子の順信房に寺を譲り、これまでの禅院を浄土真宗とし、無量寺に寿を加え、「無量寿寺」とした。
 創立以来、寺基を他に移すことのなかった境内には、聖人ゆかりの遺跡が数々残っている。
寺宝も数々あるが、覚如上人筆の「拾遺古徳伝」は、国の重要文化財である。
                     (光明山無碍光院無量寿寺)










 歎異抄撰者開基
           報仏寺
 (真宗大谷派)
                    茨城県水戸市河和田町887
                                          開基:唯 円 房 


報仏寺の山門



唯円大徳開基の石碑



報仏寺本堂でのおつとめ


 報仏寺は水戸市河和田にある。樹木にかこまれた緑の多い境内に入ると、わら葺屋根の古風な本堂が見え、その前に「唯円大徳開基」の碑が静かに建っている。
 有名な「歎異抄」は、開基唯円の編になる。歎異抄は、二部に分かれており、前半は親鸞聖人の語録、後半は唯円の著作となっている。全般的には親鸞聖人の語録を基礎にし、聖人の死後にあらわれた異説を嘆きつつ、聖人の正意を伝えようとしているものである。
 唯円で忘れられないのは、倉田百三の「出家とその弟子」である。唯円がいかに親鸞聖人の教えを信じ、その人間性を慕ったか、如実に著されている。
唯円の前身については、いくつか説がある。大部の平太郎の弟で、北条平次郎則義という乱暴者であったという説もある。
 また一説には、親鸞聖人の帰洛後、若くして京都で親鸞聖人の弟子となり、聖人の円熟した信仰を受け、後に常陸国河和田に下り、念仏の道場に止住して、聖人の精神を護持したという。学問的にはこの説が有力であるという。
 寺伝によれば、唯円房は、仁治元年(1240年)常陸国河和田榎本の地に念仏道場を開いた。この道場は唯円から十代の後、文明三年(1482年)少し離れた竹ノ内というところに移されて泉渓寺となり、さらに元禄三年(1690年)報仏寺と改称の上、旧河和田城跡の一角に移され、現在に至っている。
 庫裡のかたわらにある水戸光圀公お手植えの松の見事な枝ぶりは、訪れる人の目をとめずにはおかないという。
 落ち着いた風情を見せる報仏寺には、親鸞聖人とその弟子唯円が今も息づいている。
                    (法喜山泉渓院報仏寺)







 二十四輩第二十三番
            信願寺
  (浄土真宗本願寺派)
                      茨城県水戸市緑町1-2-1
                                             開基:唯 信 房


信願寺の本堂と
親鸞聖人妻子ご三体像




信願寺本堂でのおつとめ


 開基唯信房は、出家する前は橘村幡谷の城主、幡谷次郎信勝と称していた。建保四年(1216年)八月十三日の夜、守り本尊にしていた観音像が夢枕に現れ、「聖人の教えを受けよ」とのお告げがあったことから、聖人とご縁が結ばれ、弟子となり、唯信という法名を授かったという。
 唯信房は、貞永元年(1232年)十二月、聖人を請じ、茨城郡橘村幡谷の郷に一宇を建立したのが、信願寺のはじまりである。唯信房は、その後点々と各地に移り、布教する。
 唯信房は、親鸞聖人入滅後、九年間その墓を守ったといわれる。その折に、山陰地方にまで脚をのばし、布教したと伝えられ、裏づけとして、島根県浜田市真光町顕正寺で、唯信を開基とし、二十四輩二十三番を名乗っていることがあげられる。このような例は他にはなく、ほぼ間違いないとされ、各地を巡った唯信房がかなりの健脚であったことが伺われる。
 慶長十年(1605年)には水戸城西(信願寺町跡)に移転し、さらに延宝九年(1681年)、火災に遭ったのを機に、水戸光圀公の命により、黄金若干並びに鞍馬八十頭を賜って、現在の地に落ち着いたとされている。
 信願寺の本堂の前には、1979年、全国初の親鸞聖人妻子ご三体像が建立された。親鸞聖人が越後から常陸にこられた時の旅姿で、作者は渡辺卓熙氏、台座には高下惠氏の親鸞讃歌「野のひじり」が銅版に浮き彫りにされている。
 二十四輩の集印帳は、この信願寺から発行されている。
                       (徳地山蓮生院信願寺)



 水戸市千波湖畔の映画「桜田門外の変」オープンセットを見学